老津神社の由緒

祭神

正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天之菩卑命(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たきつひめのみこと)
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
大山祇神(おおやまつみのかみ)

鎮座地

愛知県豊橋市老津町宮脇14番地
宮司 中村和彦

ご由緒

老津神社は天長元年(824年)に近江国(現在の滋賀県)より八王子権現を勧請して創建されました。当時は神仏習合の時代であり、境内には阿弥陀堂や伽藍堂が建立されていたという記録もあります。

鎮座地である老津の町は明治11年(1878年)までは「大津」と呼ばれ、当地方の海水運の重要拠点でした。三河国内にとどまらず、伊勢湾を挟んで尾張(現在の愛知県西部)や伊勢(三重県北中部)地方とも活発に交易を営んでいたと考えられます。

こうした背景から、天慶3年(940年)に朱雀天皇が大津一帯を神戸(神社に献上する作物や海産物を用意するための土地)として伊勢の神宮に寄進することを願われ、文治元年(1185年)九月九日に高倉天皇の后である藤原殖子(ふじわらのたねこ・ますこ)の寄進によって、正式に「大津神戸(おおつかんべ)」が成立しました。(神宮文庫所蔵 「神鳳抄(じんぽうしょう)」 より) 以後、伊勢湾を渡って老津の豊かな海の幸、山の幸が神宮に献上されたと考えられます。

しかし、当時は「源平合戦」の終結間もない混乱期であり、武士による寺社領への乱暴狼藉が絶えませんでした。それはここ老津の地も例外ではなく、「大津神戸」の健全な維持運営のためには神宮神官の直接管理が望ましいと考えられたのか、建久3年(1192年)に伊勢中村の地(現 三重県伊勢市中村町)より、現在の宮司家である中村氏が赴任しました。(神宮文庫所蔵 「皇大神宮建久己下(こうたいじんぐうけんきゅうつちのとげ)」 より)

鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡(あづまかがみ)」の『建久十年(1199年)三月二十三日の条』にも、「二代将軍 源頼家(みなもとのよりいえ)の名の下、大津神戸への地頭職(幕府の荘園管理職)の派遣を止めた」という記述があり、大津の地が武家の手を離れ、名実ともに伊勢神宮の神戸として皇室の祭祀をお支えしていたと考えられます。

一方で、江戸時代の慶長6年(1601年)に地元領主の戸田金左ェ門(とだかねざえもん)によって御供田10石が、同年徳川家康家臣の伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)によって黒印料9石が寄せられ、続く慶安元年(1684年)からは幕府より朱印料9石が寄せられるなど、武家からの信仰も厚かったことが見受けられます。

やがて明治維新を経て、明治2年(1869年)の神仏分離令により名称を「八所社」と改称し、明治七年(1874年)に村社の社格を戴きました。続く明治43年(1910年)に近隣の「神明社(576年創建)」と「三嶋社(781年創建)」を合祀して「老津神社」と改称し、現在に至ります。

記事

記事

老津神社には多くの神様が祀られております。
殆どが、天照大御神の子供と 素戔嗚尊の子供です。

古事記を紐解きますと、伊邪那技の禊からできた子供達が

天照大御神 月夜見の命 素戔嗚尊であり

それぞれ、天照大御神には高天原(タカマガハラ)を
月夜見には、夜の食国(おすくに) 素戔嗚尊には海原を治めさせようとしたが

素戔嗚尊は、母の伊邪那美が恋しくて泣きわめいていただけなので、伊邪那技が呆れて
伊邪那美の元へ(黄泉の国)行くように伝えると、素戔嗚尊は、喜んで向かったそうです。
その途中で、天照大御神に挨拶をしてからと思い 立ち寄ろうとした所

天照大御神は、勘違いをして、素戔嗚尊が攻めてきたと思い戦の準備をしていた。

そんな事とは、知らずに素戔嗚尊は天照大御神に会いに来たのだが、戦意が無い事を表明する為に
子供を産んで誓約(占い)する事にした。

場所は、天の安河(あめのやすのかわ) 先ずは、天照大御神が素戔嗚尊の剣を 三つに折 それをバリバリと食べ
天の真名井(あめのまない)の水を口に含むと 霧状に吹き出した先にできたのが

多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
田寸津比売命(たきつひめのみこと)

ついで、素戔嗚尊が 天照大御神のいろいろな場所の勾玉を、天の真名井(あめのまない)で
洗い口に含み霧状に吹き出すと

正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天之菩卑命(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)

が生まれたそうです。

これで身の潔白を証明した素戔嗚尊は、調子に乗って高天原(タカマガハラ)で、暴れまくり
天照大御神が天の岩戸に立て籠もる・・・と言う、有名な話へと続きます。

最後に 大山祇神(おおやまつみのかみ)は 伊邪那岐と伊邪那美の間にできた子供で
素戔嗚尊の嫁 奇稲田姫(くしなだひめ)の 祖父にあたる神様の様です。

※神様の表記は 日本書紀を元にしております。

氏子青年会

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